市井に交わり民草の往来に溶け込んで、活気の満ちた彼の地を闊歩する。それから、人の習わしに触れ、その胸間を知る。────以前の我なら想像にもしなかっただろう。いくらすげなく拒絶しても尚、あの手この手で我を連れ出そうとするのは彼だけだ。無論、我の在り方を彼は深く理解しているがゆえに、我を連れて無闇やたらと凡人に近付くような無謀な真似はしない。それを知るからこそ、時に思いもよらぬ要求すらも、彼がそう望むならばと以前よりも容易く呑めるよう大きな変化が訪れた。
いずれも元よりこの生には無縁、不要なことだというのに、彼はそれでも、と。常に迷わず我の手を取る。しかし人間はその関係を築くにあたって、「共感」を大切にしているのだと以前耳にしたことがあるが、果たしてこの身でそれが叶うかと問われると、間髪入れずに難題と言える。我は人の子の感情において造詣が深くはない。当然、我が人間ではないからだ。ゆえに不思議でならない。旅を重ね、往く先々で様々な者に出会い、交流し、更には人好きのする人格を兼ね備えた彼が、どうやら好き好んで我の傍に在ることが。この先も、この疑問が解消されることはないだろう。だが、ひとつ宛てるとするならば。何度その頬を濡らすことがあろうと決して我の傍を離れようとはしない、理解のできぬ愛しい子のため。その限りある時間が尽きるまでに、それがどれだけ無謀であったとしても、彼の思い描く良き方向へ変わりたいのだ、と。切に願う。