誰も僻んでへんよ。暇があるなら努力に掛けた方がまだマシや。どうにもならへんことは僻む必要性もあらへんし。…ああ、口へ乗せた言葉に意味のある時と感情の籠る時があるんは珍しいことやねん。適当に、何にも考えやんと話してるだけの機械や。息をすることと笑うことが同じような感じやろうか。
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白昼、公園でひとり遊ぶ子供と目が合うた。鮮度のない眼球が痩せこけて、ぎょろりとワシを舐める。今にも壊れてしまいそうやった。かなしいことに、子を殺された父が復讐したら裁かれて、地雷原を歩かされる犠牲者がおって、ここには飢餓のあまり拒食症になってしもた小さな子供がおる。きっとこのかなしい子は皮肉をそのまま舌に絡ませる。あれもこれも、何もかも気に食わへんで、生死の狭間をさまよう。生には死があるように、美には醜が、優しさには辛辣さが、幸福には不幸がある。光が濃ければ闇も濃く、対が存在せんかったら生きられへんから、人はかなしみを口遊んで遠巻きに眺めるだけ。それは理不尽でも不条理でもあらへん。これがあるべき姿や。
先日の一件で理不尽の単語を持ち出されることが多かってんけど、これはあるべきことやと理解しとる。問題はそこやのうて、理不尽が降りかかったことでもあらへんくて、白昼のかなしい子供と同じかなしい人に差し出した手の平が痛みを伴って弾かれたことやった。あるべきことを己の価値観で歪めようとした、罰なんやろう。…ちゃうか。単に計算した方式を間違えただけや。それに受けた罰やった。許されるとは思てへんよ。