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976.ラストバレル
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16 :
黛千尋
2015/11/16(月) 02:04
晴/46
自分の名前は大して好きじゃなかった。別に今だって特別好きじゃない。苗字の印象も相俟っているのか大抵名前だけだと女と間違えられるし、大体ちーちゃんとかそういう間抜けな響きのあだ名をつけられるし、いいことなんてひとつもなかった。苗字は苗字で十中八九「なんて読むの?」なんて聞かれるしな。幸いにも某弁護士コメディドラマが流行ったおかげで、多少の認知は獲得したんだが。
今日は病院に行っていた。用事があって実家に戻っていたんで、昔からの行きつけの病院だ。風邪を引いたんだ。といっても少し咳が出る程度だったんだが、過保護気味な母上様は自然治癒も民間療法も信仰しちゃいない。ご近所のお医者さまと現代の科学力をまるで魔法かなにかとでも思っていらっしゃるのさ。だからマスクをして一人で長い待ち時間を過ごさなきゃならなくなった。もちろん暗記帳を片手にな。やれやれだよ。
黛千尋さん。
よく通る声の看護師さんが呼んでくれた。喉の様子を見てもらい、気管と心臓の音を聞いてもらった。風邪ですね。ああ知ってたさ、そんなことは。お薬を無事に処方してもらい、さっさと帰ろうとした。
千尋くん?
そう呼んだのは小学校の頃の麗しの美少女でも、十年来の幼なじみの女の子でもない。オレの人生のメモリーにそんなデータは記録されていない。振り返ればそこには近所に住む老齢のおばあさんだ。大昔、オレが懐いていた。大きな犬を飼っていて、そいつ目当てにオレが遊びに行っていたんだ。コロっていう犬だ。オレが中学に上がる頃に事故で死んだ。
ばあさんはオレの身長が思ったよりも伸びていること、顔立ちが相変わらず母さんにそっくりだということ、今オレが一体齢いくつだったかということを数分話して、オレを解放してくれた。オレは多分、始終(ほんの少しは)笑顔を浮かべられていたと思う。うれしかったんだ。まだ元気でいてくれ。
家族以外の人に下の名前を二回も呼ばれるなんてことは、随分久し振りだった。同じクラスのやつは一貫してオレをまゆずみと呼んでいたし、唯一オレの名を頻繁に呼んでいた人物は、昨年を境に、それをやめてしまった。
繰り返すが、別に自分の名前は大して好きじゃない。どうせならもっとあいつみたいな男らしく重厚な名前のほうが良かった。征という文字の意味を調べたことがある。すぐにうんざりした気分になって、辞書を閉じた。
ちひろ。
あいつにそう呼ばれるのだけは、嫌いじゃなかった。
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