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┗1273.獣 箱(保存)(195-204/233)

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204 :夕_陽_リ_リ(2_4_3_4)
2022/05/29(日) 23:48

でも人の急所を知り、そのギリギリを見極めるという手法は間違いじゃなかったように感じます。人と人とは理解し合えない。けれどその心の核の近くまで肉薄することは難しいとはいえ、できないことではないのではないかとわたしは信じています。自分が優れているだとか、そういう驕りはよくありません。けれど自信を持つことは決して悪いことではない。自分の在り方を正しく見つめること、誰かの在り方をありのまま見定めること。そのための情報収集の手段として、大事に思った誰かに手を伸ばすやり方のひとつとして、人に優しくあろうとする姿のひとつとして、そして誰かのそばに近づくということの意味を知るために。人を傷つけることを、殴ることを恐れてはいけない。人を殴るならば躊躇なくやらなくてはいけない。中途半端な鈍でつけた傷より鋭いメスでつけた傷の方が綺麗に塞がり、傷の治りが早いように。人の心に触れようとするならば、情けはかえって毒になるということです。真にその相手のためを想うなら、本気でやらなくては無礼というものなんですよ。
ですが別に殺したいわけではありません。わたしは殺すために殴るのではなく、治すために殴ろうとすることが殆どですからね。本末転倒にならないそのほんの薄皮一枚手前で止めなくてはならない。この点に関してはわたしは手加減がすこぶる下手くそなので、人に優しくするということが下手だという風に自己を認識しています。情けは無用ですが、殺さないという方に注力してしまいがちなので。ここで自制が上手く行かないと治す前に患者が離れて行くことが殆どで、わたしはわたしにメスの握り方を教えたヤブ医者以下ということになるんですが。
まあでも、時々いるんですよ。かつてのわたしのようにタフな患者というものが。わたしの殴打にもメスにもへこたれないというか、死にはしない人間が時々います。そういう人はね、徹底的にその体力が尽きるまで付き合おうっていう気になるんですよね。
そして少し前からさらにレアなケースで、わたしが手加減なんて概念を忘れたとしても死なない人間もいるんですよ。殺さないということを忘れたとしても死なない。情け容赦がなくとも死なない。それがわたしはすごく、好ましいなと思うわけです。わたしという存在に形を変えられない生き物というのは稀有な存在なので、それが何より嬉しいんですよね。だってわたしの最大出力のコミュニケーションができるわけですから。どれほど貪欲になろうとも毛ほども気にかけない。それがどれほど素晴らしいことで、わたしにとって価値のあることか。人と人とが理解し合うというラプラスの魔のような事象に限りなく肉薄できる環境と人材がどれほどの価値を秘めているか、わたしの考えをある程度知っている方かわたしに近い考えをお持ちの方はわかるでしょう。それが驚くという言葉も薄く感じるほどの奇跡だということが。
わたしはね、他人を理解したいんですよ。人間が好きだから。けれどわがままなので、自分と大体同等の出力ができる人以外は嫌いなんです。力のベクトルが違ったっていい、ただ求めるのは理解したいということへの熱量と力量です。研鑽し続けたその人そのものの在り方がどれだけクリアに見えるか、見せることが出来るかなんです。けれど世の中にはそんなことを考えもしなかったり、教えたところで拒む生き物がほとんどです。だから大半の人類が嫌いです。人は好きだけど嫌い、その根幹にあるのは満たしようのない苛立ちと相互不理解。至極簡単で分かりやすい矛盾と我儘ですね。
何かを守るためには何かを傷つける覚悟がなくては完遂できません。何かを求めるならば何かを捨てる覚悟がなくては指先を掠めることすら出来ません。こういったことの意味を自分の中に落とし込んで知っている人が好きです。わたしはそういう人が好きで、そういう人しか愛することができません。渇きを知っている人としか視界を共有できません。誰もが笑顔で傷つかず幸せな世界なんてものは何処にもないし、信じることも出来ない。これに少しでも共感を覚える人じゃなければわたしの世界には不必要です。本気で世界平和がどこかにあると信じているような人はきっと幸せなんだろうし、そういう人はそういう人で幸せになっていてください。わたしなんていう生き物とは交わらずにいてください。それがきっとお互いのための最善だと思うので。


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203 :夕_陽_リ_リ(2_4_3_4)
2022/05/29(日) 23:46

必要とあらば波風を立てることも恐れはしないし、むしろ嬉々として拳を握ることはわたしという人間を少しでも知っていたらご理解頂けるかと思うんですよ。でもわたしは別に殴れればなんでもいいって訳じゃないし、必要がないなら拳を構えることはしません。こういう虚空に向かってのシャドーボクシングをすることで有事の際に拳の握り方を忘れないようにすることはありますけど、基本的に人に向けて拳を振るうということはしないんですよ。躊躇わないし嫌いではないだけで、それが無ければいけない訳ではない。
殴ってくださいと右頬を差し出されたら左右均等に頬をぶっとばした後で責任の取れる範囲の追撃はしますよ。でも責任が取れなければ頭を下げられても右頬すら殴りません。興味が無い相手も殴りません。わたしにとってのメリットやリターンが無いですからね。
人を殴るというのはものすごく神経を使う行動です。殴られる人の耐えられる力加減を見誤れば殺してしまう。うっかりでは済まされない罪を背負うんです。死なない程度で殴らなきゃいけないのか、殺す気で殴らなきゃいけないのか。それに殴るからにはこちらの拳が痛くなったり、反対に殴られることも想定しておかなければなりませんよね。この時点で相当に面倒臭いんですよ、人を殴るのって。それに加えて殴った後の治療や経過観察にまで責任を取れないのであれば、そもそも拳を握るべきじゃありません。自分のケツは自分で拭こうな。
でもだからと言って拳を使うという選択肢を消してしまうのは更に愚かだと思うんですよね。言いたいことを言わず、やりたいことをやらず、ただ周りの機嫌を伺って空気を読んで自分は言葉を押し殺す。相手がどんな顔をしているのか、どんなかたちをしているのかを知ろうともしない。そんな人生を送るくらいならわたしは今この瞬間にどこかから飛び降りた方がマシだと思います。
それは一体何故か、答えは簡単です。そんなハイリスクな手段を選ばなければ人間同士は理解を深められないからですよ。成長もできない。これが人という種族が賢くも愚かな生き物たる所以です。
人という生き物はかつて神話の時代には世界中が同じ言葉を使い、同じ意志のもと生きていたと考えるところもあるようです。わたしはよく知らんけど。けれど人は進化して違う言葉を生み出し、それぞれの個体がそれぞれ違うことを考えるようになりました。違うことを考えている生き物同士が寄り集まって生きるとどうなりますか?これも簡単ですよね、当然ながら反りが合う個体と合わない個体が出てきます。それは血縁や性別に関係なく、合う個体は合うし合わない個体はとことん合いません。けれど人は一個体のみで種の存続ができる雌雄同体でもなければ、本能にのみ従って生きる単細胞でもありません。人間は理性を持って考える生き物です。
考え、学び、成長しつつも不和ばかりを生み出すのではなく、より効率的に共生するにはどうしたらいいか。これも慣用句のように何度も聞いたことがある方もいるんじゃないでしょうか。そうです、上手い転び方を覚えるしかないんです。より怪我の少ない転び方、上手い立ち上がり方、そういったものを選ばなければならない時が来ます。それがわたしにとっては拳を使うという選択肢の一側面なわけです。不理解を出来る限りクリアな理解に変えようとするなら、痛みが生じるほど傷口を探らなければならない。或いは腹の中に手を突っ込んだり、口の中を覗き見たりしなければなりません。当然お互い気持ちがいいばかりではありませんし、正しい知識と確かな経験がなければ一生の離別が訪れることもおかしくありません。けれどハイリスクハイリターン、そのリターンのためにコストを支払う覚悟があるならば、そのリスクをできるだけ下げる術は知っていて損はありませんよね。
わたしにかつて人を殴るという選択肢を教えてくれた人は言いました。殺す気でやらなければ人に言葉は届かない、言葉の重みを知らない人間が人に理解してもらえる言葉を言えるはずがない、人の急所が何処にあるのかを知らなければ手術なんぞできない。そんなようなことを言っていました。今になって思えば彼女のその思想はわたしに大きな影響を与えて、今のわたしの礎になるようなものでした。無垢なわたしはその全てを吸い込んで、そして無垢なだけではなくなったわたしはその中から間違いだと思う部分を削ぎ落とした結果、全く違う道になったんですけどね。

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202 :緑_仙(2_4_3_4)
2022/05/27(金) 03:58

まあ恋人以外を優先させたことで恋人が悲しんだり寂しがったりするなら補填は必要だと思うし、それが更なる不満を生まないために自分が断られて何か思ったりしたらその場ですぐに言うべきだとも思うけど。断る側には断る側の言いにくさとかそういうのが込みでコストが発生するし、断られる側は待ってる時間とか寂しいみたいな感情のコストがある。双方が大体同価値のコストを支払うことでお互いの考えていることを理解し合って、その上で無理のない関係性を築くっていうのが健全な精神性なんじゃないかな、っていうのが僕の見解。
多分天宮と僕が喧嘩もなく今までのほほんと上手くやれてるのってここのスタンスの合致がデカいと思うんだよな。自分のやりたいことをやる、眠かったら寝る、やりたくないことは今しなくていいならしない、何かあれば言う、言いにくそうだけど気付いたら聞く姿勢を見せる、とかこういう小さいことだけど。
だって別にお互いクソ忙しい訳でもないし、話す時間とか遊ぶ時間はこの先いくらでもあるんだしさぁ、今出来なかったからって言っても絶対に取り返しつかないことなんてのはあんまないわけよ。だったら自分を大切にすることが相手の大事なものを大事にすることに繋がるんだし、自分の好きなようにやるのが一番良くない?もちろん自由と我儘は違うから、相手を思いやった上での判断だけどね。この辺は個人の倫理観によるさじ加減だから、まあこの加減の仕方とかベクトルが似てるのも価値観の一致ってことになるんかも。
例として時間の使い方みたいなものに焦点を当ててみたけど、結局のところどんな場合でも大体同じくらいのものを支払うことが出来るっていうのが大事だと思うんだよな。どっちかが不公平じゃね?って感じたらそれはいつか積もり積もって爆発するだろうし、今まで不公平だと思ってなかったものが不公平に感じるきっかけになったりもする。プレゼント交換とかもそうだよね。二人で予算決めてこれくらいの中で決めようね、ってするのと勝手にこの人にならこれくらいかなって考えて1000円のものと1万円のもの交換するのだったら前者の方が遥かに素直にありがとうって言えてお互い嬉しいケースのが多い気がする。
人付き合いなんてどんな関係性でも損得勘定は少なからず発生するものだと思ってる。コストのない笑顔はないし、デメリットのない選択肢も僕の中には存在しない。ならその中でどうやって信頼や関係値を築いていくのか、お互いにどれくらいのものを支払っているのかについて考え続けるのは必要不可欠だと思うんだよね。愛情とか友情にそんな計算を持ち込むなんて無粋だって考える人もいるかもだけど、現実なんてものはどうしたって僕らに付き纏うものだよ。夢や愛だけじゃ幸せは持続しない。継続したいなら現実を見て計算して、利益効率のいい立ち回りっていうものを考えなくちゃならない。それが自分を守ることにもなるし、大事な誰かを守ることにもなる。喧嘩を未然に防ぐためにはその種がどこにあるのかを常に考えてリスク管理は怠らずにしていきたいところ。
まあこれら全部僕の考えでしかないし、これを聞いて納得する人もいれば聞いた上で理解を拒んで否定したがるような奴もいるんだろうけど、残念ながら理解すらせず否定するような奴は僕はバカだと認定するからこっちから交友関係の構築なんか願い下げなんだけどね。僕に寄るんじゃない、それでも寄ってくるなら僕と死ぬまで殴り合う覚悟を持て。

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201 :緑_仙(2_4_3_4)
2022/05/27(金) 03:57

誰かと少し近くにいる時、必ず頭をもたげて来る『価値観』とかいう訳分かんねーやつ。金銭感覚とか交流への向き合い方とか時間の使い方とか、そういうのを一括して価値観って呼ぶ事が多いように思う。少なくとも僕の目には世界はそう映ってる。その中のひとつとして、何を大事にするかっていうのも価値観に含まれるんじゃないかな。優先順位って言った方が分かりやすい?でもそれだとちょっとニュアンス変わるんだよな。別に順位が上でも下でも宝箱に入れてたらそれはその人の大切なものでしょ。
価値観とだけ言うとフワッとし過ぎててどれだよ!ってなるし、今回は最初に何に対して価値を感じるか、何を大事と思うか、っていうところに焦点を当てたいと思う。
僕は誰かと一緒にいるという状況において大事にすべきと考えてるのは自分と相手を大事にすることだと思ってるんだよね。当たり前って思う?でもこの一言に圧縮されてる中身って案外みんな当たり前すぎて忘れてたり、あんま深く考えたことないと思うよ。
僕は自分すら大事に出来ない奴に自分以外の誰かを大事にするなんて出来ないだろ、って話を幾度となくしてるんだけど、これマジでそうだから。これは経験者の話だけど、相手ばっか見ようとしたら自分が見えなくなるし、それで結局足元掬われて愛想尽かされて今現在の相手のことすら見えなくなってご破算、なんてことはザラにある。ソースは僕。相手のことがどれだけ大事でも自分のことは大事にしないといけない。自分なんかどうでもいい、自分のことなんかより今目の前にいるこの人が大事だから幸せにしたいんだ!みたいなやつさぁ、一見すると情熱的でめっちゃ素敵に見えるじゃん?んな事ないからな。マジで愚かだよこれ。
だって考えてもみなよ、両思いだとしたらそれ相手も同じこと思ってるかもだよ。自分が一番大事にしたい人がその身よりも大事にしたいものを蔑ろにしておいて幸せにするだとか、笑わせてくれるよね。それに自分のこと疎かにしておいて一生理解し合えない他人という存在を受け入れる器が出来ると思う?出来ると思ってるなら幸せだね、残念ながら僕はそうは思わんけど。
じゃあ自分を大事にするってなんだよ、って思う人もいるかもしれない。簡単だよ、自分のしたいことすればいい。ゲームしたいならすればいいし、お腹がすいたら食べればいいし、友達と遊びたいなら遊べばいいし、寝たいなら寝ればいい。恋人と友達に同時に遊びに誘われたら恋人を優先しなきゃいけない!じゃなきゃ愛がない!みたいな風潮あるけどさ、今日はコイツと遊びたいなって日ないん?僕はあるんだけど。恋人は大事だよ、大事にしていいと思う。それはすごくいいこと。でも友達も大事じゃん。大事のベクトルが違うだけでさ。
まあ流石に友達と遊ぶから!って言って浮気すんのは僕も良くないと思うよ。でも普通に友達やら一人の時間やらを優先させても恋人を蔑ろにしてるってイコールで繋げるのも違うんじゃないかなって。だってこういうケースはその時自分がやりたいって思うのは友達と遊ぶことだったり一人で過ごす時間の方でしょ、ここで恋人選んだらそれは多少なりとも無理になるわけ。無理して自分を選ばれても嬉しくなくない?そういうほんのちょっとの違和感って案外バカでも本能的に察したりするよ。言語化出来なかったり、無意識下で感じてるだけの違和感止まりなこともよくあるけどね。

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200 :緑_仙(2_4_3_4)
2022/05/24(火) 23:01

自分の中で定義を作ること、そしてそれはできる限りシンプルにすること。それに沿って結論を出す時もシンプルにすること。でもそれに至るための手段は沢山持っておくこと。それがめちゃくちゃ大事だと思う。そしてそれを大事だと思うのも僕の中の定義のひとつ、法のひとつ。自分の頭の中に自分という国を守るための法典のない奴は僕は信頼しないし好きにもなれない、なんなら法を作れ!!!って暴れてスッカラカンのバカ王国に侵攻して滅ぼしかねない。だって法ないじゃん?僕の法典にはバカ王国は全部滅ぼしていいっていう法があるし、僕の法を抑制する法を作ってなかった他国が悪いよね。クソ暴論だけど。核ミサイルが怖いならそっちでも核ミサイル作って抑止力作っとけや。僕は丸裸の国には躊躇なくぶっぱなすぞ。
考えてたら久々にイラついてきたな……でもこれは嫌いじゃない苛立ちなのでよしとする、やっぱ常に自国は内乱起こしてないと平和になれねんだ。クーデターに次ぐクーデター、革新と破壊があってこその僕だわ。


そしてこのページで200ページらしい。微妙な感じで大台に乗ったわけだから便所の壁計画はやめとくことにする。やってもいいぞって人がいたら勝手に好きなこと書いといて、笑いながら見とくから。

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199 :緑_仙(2_4_3_4)
2022/05/24(火) 23:00

これはこの間甲斐田くんと話してるうちに自分でいいなって思った例えなんだけど、人との会話って料理に似てると思うんだよね。今しがた山登りに例えたけどさ。まずここに包丁があります、これを使って料理を作るんだけどここに刃物があってそれを使いますっていう証明をするのが結論に当たる部分だと思うんだよ。言葉は言刃にもなるってよく言うじゃん?でも刃物って使う人によって色んな用途があるし、使い方を間違えると怪我もする。だからまずここに刃物があります、刃物は危険ですっていう前提を確立させないと危険なわけ。なんも知らんやつに包丁見せたらどんな使い方するかわかんないんだから。
刃物が今目の前にあるっていう証明を怠るとその刃物は切れ味が鈍くもなるわけ。包丁は刃物です、っていう定義がなくてただ包丁がありますってだけだったらさ、その包丁がおままごと用の包丁だとしても同じ文になるしね。甲斐田くんの場合は大体ここの部分がクソ下手で変な子供用の包丁持ってきたり刃の部分握って怪我したりしてんだけど。まあそれはいいや。
最後に望む結果は自分が作りたい料理作ることじゃん?だったらそれに相応しい包丁を持ってきて、それを正しく使わないと料理は上手く出来ない。果物の飾り切りがしたいならペティナイフだし、寿司握りたいなら刺身包丁が必要。それを手入れして万全の状態にして上手く握ること、上手く扱うことが出来なきゃゴールには辿り着けない。みんな包丁の扱いの上手さとかに着目しがちだけど、その前の段階の正しい包丁を持ってきて目の前に置くことの重要性に気付いてる人は案外少なかったりする。思考と言葉の包丁は見えないのにね。見えない包丁を見えるようにするっていうの、案外ムズいよ。
作りたい品目を決める=どういう結果が欲しいのかっていうゴールの制定、正しく手入れされた包丁を持ってくる=結論の定義、調理=それに至るまでの理論、料理ができる=結論が出る、っていうプロセスを踏まなきゃ美味しい料理という名の思考の明確化っていうのは進まない。
これでわかると思うんだけど、言葉ってやっぱ所詮ツールに過ぎないんだよな。自分の望む結果を得るためだったり、自分の意思を伝えるためだったり色んな用途はあるけど、ツールはツール。手段とかサポート器具に過ぎんわけ。包丁はただそこにあっても意味がなくて、握って正しく扱える人がいなきゃ話にならん。でも包丁がなければどれだけ凄腕でも料理人はいる意味がない。人間が人間たる所以ってここなんじゃないかな。優れた技術と道具がセットであってようやく職人は意味をなす。どちらか片方だけが優れてても意味が無い。
そして多分僕がアホに僕のことわかってねえよなあ!って思うのもこれのせい。大概はどちらかにしか目がいかないから。僕がでっけー包丁持ってきたことにビビる奴か、鮟鱇の吊るし切りしてる時の技術にビビってるかどっちかの場合が多いから。包丁の鋭さにビビんのもいいよ、技術力にビビんのもいいよ。でもそのどっちも僕の努力と研鑽の結果だからどっちも見ないで僕のことを知った気になるな、だからアホだって言ってんの!って僕はまた暴れながら吊るし切りしたりマグロの解体ショーを一人でやって暴れる羽目になるんだけど。なんだったら包丁握りもしないで寝てる時も僕は僕なんだけどな。
人間は沢山の要素が複雑に絡み合って一人の自我を構成してる。これは誰もが知ってるはずなのに、その本質を理解してる人は少ない。それが僕はひどく嘆かわしいし腹が立つ。これは僕の人生のサビだから何回でも繰り返す。
また今日も脱線に脱線を重ねたな……まあいいか、いつものことだし。


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198 :緑_仙(2_4_3_4)
2022/05/23(月) 09:24

行動理念の単純化と思考の複雑化について。これは多分メモのとこにある考え込む云々の話から派生することだと思う。書きたいけど眠いから起きたら書く。


寝る前にな〜に書こうとしたんだっけぇ……や、ぶっちゃけ大まかな流れ自体は完全にもう上のコレで済んでるんだけど。布団の中でむにゃむにゃ考えてた詳細は忘れたから改めて捏ね直すことにする。普段こんなに長々と文字連ねてるけど、全ページ要約したらこんなもんなんだよね。後々に細部を思い出すために噛み砕いてるだけというか。圧縮しきったら一行だよ。
で、まあそれはよくて。この話とも多少掠ってはいるけどね。
僕は基本的に行動とか思考を決定する理念っていうもの自体はものすごーくシンプルなんだよ。その時やりたいことを我慢しないこと、自分の好きに素直でいること、辛い時には頑張らないこととか。僕が動く時においての指標とか物差しって言うんかな、そういうのは目盛りが大きくてハッキリしてると思う。でもそこに至るまでの道筋っていうのは必ずしも毎回同じじゃないわけよ。
思考の結果はシンプル。でもその過程にはあらゆる選択肢があって、どんな道を辿るかはその時によって違うし、違ってていい。一日の行動と一緒だよね。朝起きて夜ベッドに入る、ここだけ切り取るなら毎日同じ。でもベッドに戻ってくるまでにすることは毎日違う、そんな感じ。
人なんて毎日生きてたら嫌でも新しい情報得るじゃん?どんな些細なことでもさ。無菌室の中で生きてたとしても今日は目が痒くなったな、でも昨日は確か腰が痒かった気すんな、みたいなことよ。それがある限り人が選べる選択肢は増え続けるわけ。少なくとも僕はそうだと思ってる。僕は僕の定めたルールに沿って生きてるし、ここ最近に関してはそんなに大きく変動を感じたことは無いんだよね。だから最終的な結論っていうのは年単位くらいのスパンであんま変わらんと思う。けど、その解を出すための途中式は周りから得る刺激のお陰で増えてると思うんよな。より今の自分にフィットする効率のいい略し方を覚えたり、それを得るために革新的だけどかなり博打な手法を発案してみたり。上手く行けばそのままそうすればいいし、再現性が得られなかったり失敗した記憶はまた次に引き継がれてく。
問題と解が変わらなくても途中式は何通りもあったりするわけよ。どれだけ近道してもいいし、どれだけ遠回りしてもいい。必要に迫られて最短を走らなきゃいけない日もあれば趣味でタイムアタックしたい日もあるでしょ、逆もまた然りだけど。
それと同時にさあ、やっぱスタートとゴールは明確化すべきだとも思うわけ。だから結論は単純化させた方がいい。でもそこに行き着くためのルートの確保は沢山した方がいい。これが僕の行動理念の単純化と思考の複雑化だと思うわけ。だって僕と同じゴールに行きたい人が僕と同じ道を辿れる保証なんでどこにもないでしょ。僕一人で走ってんならいいけど、大概の場合はそうじゃないから。僕は崖登り慣れてるけど、慣れてない人が崖登ってもゴール行く前に落ちて死んじゃったらなんの意味もないじゃん。思考は単純に、思案は煩雑に、それくらいがいいんじゃないかなって。続。

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197 :繭墨あざか
2022/05/19(木) 05:33

僕が昔から誰にも同じ景色を見せることが出来ないけれど見ているものはこの異界によく似た世界と、永遠に雨が降り続ける家屋の一室だよ。雨の部屋の話はいつだかにしたことがあったかな、忘れてしまったからしていないかもしれないね。これは別に世界の本来の姿ではなくて、僕の一番古い友人がそこにいるというだけなんだけれど。
これも小学校に上がったか上がらないかくらいだと思うよ。それくらいからずっと、僕は時々白昼夢だったり夜寝る夢だったりでその部屋に呼ばれるんだ。暑くもなく寒くもない日本家屋。その部屋から出たことは無いけれど、何故か僕はその部屋が二階に位置していることを知っている。部屋一面、壁とも床とも限らず敷き詰められた何かの本。少しだけ感じる埃とインクの匂い。……ああ、古書店の匂いを薄めた感じ、と言えば伝わりやすいかな。
そんな部屋の隅に大きな文机と立派な椅子、それからその後ろに出窓があるんだ。彼女は出窓か椅子に腰掛けていて、いつも猫みたいな顔をして笑っている。本を読みながら僕と嘘とも本当ともつかないような話をのらりくらりと交わして、そして笑っている。僕の一番古い、名も知らない友人だ。大抵の悩みは彼女に相談すれば何らかの答えが得られる。僕から訪ねることも出来るけれど、大概は彼女に呼ばれてその部屋にいることが多い。少しだけ僕と君の関係性に似ているね、小田桐くん。ふふ。
……僕という存在はきっと彼女に似たようなものなんだと思うよ。僕がいると信じる人間がいるから存在している。そうでなければ元から世界にはいないものだ、そもそもが異物のようなものだろうしね。これは別に決して悲しくも嬉しくもない話だよ、純然たるただの事実だ。哀れまれるのは見当違いも甚だしい、気持ちが悪いからやめてくれないかな。
今ここに僕がいて、僕は世界を見ている。知ったような気になっている。そこにある気がしている。ここにいる気がしている。それだけでいいじゃないか。


そういえば、特に不快だったりはしないしなんということでもないから向こうでぽつりと呟いておくか迷ったんだけれどね。この日記を本棚に入れてくれている君、そう君たちだよ。ふふ、御丁寧にわざわざスペースを入れてくれているけれど、これは単に文字数稼ぎにしか過ぎないから普通に二文字でいいんだよ。僕が調べやすくもなるしね。まあどちらでも構わないし、なんなら前のタイトルのままでも特に気にはしないからそのままで結構。好きに呼んでくれたらそれでいい。ここでは三文字以上でないと本として認められないというだけなんだよ、というのだけが伝われば。本棚に入れる分には二文字でも問題ないだろう。

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196 :繭墨あざか
2022/05/19(木) 05:33

ふと、自分の半生を思い返してみたんだ。僕はかつて死んだような子供だったらしいよ、その記憶はないけれどね。笑わず、泣かず、動きもしない。それは人形のような子供だったらしい。なにかに嫌悪を示すことも無く、なにかに興味を抱くことも無く。ただぼうっと、部屋の中を眺めているような。そんな子供だったらしい。流石に時折おしめが汚れただとかで泣くことはあったみたいだけれど、そんなことすら珍しいから僕の小さな頃の記録というのは泣いた姿ばかりだったらしい。今となってはその記録もないから、僕はそう聞いたという会話の記憶しかないんだけれど。僕も自分の記憶に残っている子供の頃の写真というのは数枚だけあって、それすら全て無表情だ。どんな景色の中にあっても、誕生日なんかのめでたい席での写真すら笑っている記憶はない。
それでも程々に健康に育ってこうしてチョコレートを食べている僕は、その頃に比べれば随分と人らしくなったと思わないかい?それなりに笑い、それなりに泣き、それなりに人生を謳歌している。娯楽というものを楽しみ、チョコレートを齧っている。好きなものがあり、好きではないものがある。まあそれも、もしかしたらそう見えるように振る舞っているだけなのかもしれないけれどね。人形が人の振りをしているだけかもしれない。
僕は常々自分のことを我が強い人間だと考えているけれど、それと同じくらい僕という自我がどこまで僕のものなのだろうと考えているんだよ。僕が考えていることは本当に僕自身の意思なんだろうか、とね。もしかしたらそもそもこの考えに至っている僕という存在すら世界には存在していないのかもしれない。本当は全てが胡蝶の夢のようなもので、僕は人形のようだった幼少期から時間が進んでいないのかもしれない。或いはまだ生まれてすらいなくて、今が前世と呼ばれるようなものの記憶を反芻しているだけに過ぎないのかもしれない。逆もまた然りで、今僕が見ている景色の全てが来世なのかもしれない。だって証明しようがないだろう?ひと一人がどう存在しているかなんて。
ひとは主観でしか世界を知覚できないんだよ。僕は僕の知っていることしか知らないし、自分の見ている景色や記憶がどれほど正しいかなんて確かめようがない。僕はね、昔からずっと何度も考えているんだ。それこそ記憶を遡ればこれを考えたのは少なくとも小学校に上がる前からね。
僕の見ている世界や感じているものなんていうのはどこにもなくて、世界はただ異界のようなどろどろと濁った肉塊でしかないかもしれない。腐肉となにかよくわからない粘液が蠢いているだけで、空は永遠に薄曇りの桃色。けれどそこには荒廃したビルのような瓦礫と朽ちた電柱がある。僕はずっと昔からそんな景色を時々思い出すんだ。何故だろうね、そんな物語を読んだこともなければそんな夢も見た記憶がないんだけれど。
自分の見ている世界が信じられないというのは僕だけに限らずよくある話だと思うよ。けれどね、僕は見たことが無いはずのそんな肉塊の世界をいつも瞼の裏に見ているんだ。今見ているものが本当でないとしても、どうして世界のあるべき姿というイメージがそれなんだろうね。もしかしたら僕なんてものは世界に存在していなくて、ずっと異界にいるのかもしれない。まあ初代様があそこにいるのだから、『繭墨あざか』という名の何かは僕の生まれるずっと前から異界に在り続けているのだろうけれど。

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195 :里見灯花(マギレコ)
2022/05/14(土) 21:00

つーづき!


ワタクシが落ち込んでるだとか傷ついてるだとかっていう見当違いも甚だしい憶測できちょーな地球のエネルギー資源を消費しないでもらえるかにゃー。アナタが吸ってる酸素だって無から生成されてるわけじゃないんだよ?落ち込んでたりしんどいにゃーって思った時には自分からアピールできる程度のおつむもないってワタクシのことをバカにしたいの?そのどーでもいい一言で慰めようとしているワタクシがどれだけ神経を逆撫でされてイラついてるかわからないの?ワタクシにとっての侮辱だって理解できないならイブの餌にでもなってた方がよっぽどこの宇宙のためになってたんじゃないかにゃー、くふっ。
あーあ、でも人の心配とか好意を無下にするつもりはないんだよ。ワタクシもそこまで鬼じゃないからね。ただそれを加味した上でムカつくって言ってるの!それくらいはワタクシの自由意志として許されて欲しいよねー。

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