余談
だからって命あっての物種であって、稽古を重ねる中でよく死ななかったと我ながら褒めてやりたいとさえ思う。果たして何度目だったか、少なくともまだ片手で数えられるような回数しか現場に立ち会っていなかった頃だ。対象の呪霊を祓除した後であえなく残される形となった取り巻き風情の低級を前に、突如として放り出された。掌印だってあやふやな、直前の戦いで圧倒されていたせいで辛うじて逃げ一辺倒でやり過ごしてはいたものの愈々追い詰められるや、あわや致命傷を喰らいかねない寸前で思っ切り腕ごと引っ張られた、ら、脆くも脱臼した。どうにも力加減がわからなかったらしかった。呪力だって今にも底を尽きそうだったが痛みで気絶することもできやしねぇ、怪我を負わせた張本人は泡食らってみっともなく狼狽えていやがる。そのことについてつい先日、何の気なしにつついてみたところ平謝りされたんで、尤も今となっちゃいい気味ではあるんだが。治療してくれた家入さんにまんまと一目惚れしたっていうのに、ふたりの掛け合いをみるにつけ淡い初恋は瞬く間に散っていったってのも余りに苦々しい思い出だ。妙齢の男女が喧嘩してる様こそ夫婦としてのありかただと、それまでの家庭環境で培われた固定概念による勘違いであったことはもう一つ、二つ、歳を重ねてから知った。それについてもぼやいたら、お見合いの場でも用意しようかって提案をされたんで、やっぱり箪笥の角にでも小指ぐらいはぶつけて欲しい。
禪院家に出入りする都度噂されていた、ろくでなしの親父のこと、いくらで売られたかっていうこと。当時は馬鹿らしいとさえ思っていた、捨て子同然だったこともあって大層な価値なんざねえだろうにって。困窮した生活から脱することができるのならどこに身を置こうが構わなかった。ただ介入した時期と出された条件を比較した際に都合がよかった、それだけであの人に師事することを選んだ。折り合いが悪かった他家の、それも悪童まるだしの若造に預けるなんざ以ての外だったんだろうがなまじ現代最強と名を轟かせる術師だ、長いこと恵まれずにいた相伝の指南役として認められた部分はあったに違いなかった。事実として、書庫で文献をやたらめったら漁るにしたって遣り口をよくよく知り尽くしているようだった。どこから繙けばいいのか、式神の特徴とそこから分析された優先順位、調伏の儀のなりたちと立ち会いに至るまで。教えたがりで、ほとんど息継ぎもなく早口で。まともに聞き取れやしなかったし、質問を返そうものなら一度で理解しなかったことを純然と驚かれた。そこに嫌味がなかったからこそ癪だった。とはいえ入学と同時に二級術師となれたのは下積みを経てこそだった。紛れもなく教育者としての功績だ。だというのに、遺書のなかであの人の生死に触れていたことが許せなかった。多忙の合間を縫ってまで足繁く通いながら、そうして重ねてきた交渉もろとも白紙にしたような、不義理であるとさえ感じられたからだ。そうした筋の通し方をみてきたから反故にされたと分かった時点で跳ね除けてしまいたかった。総監部と繋がる加茂家、呪術界の覇権を握る勢いの五条家、それにくらべて層は磐石であっても突出した力を持ち得なかった、だからこそ牽制の為になんとしてでも迎え入れたかったんだろうと、呪いの王を通じてこそ術式の真髄をみせつけられたから、実感する。かくして御前試合の焼き直しとばかり、まもなく十種影法術は六眼と無下限術式の抱き合わせをこの世から葬った。全財産を投じた筋書きがこれであるなら嘸かしご満悦だろうよ。今ではすっかりご隠居よろしく呑気に暮らしている、亡きものとされたはずのあの人に愚痴をこぼした、怒ればいいのにって。こんなのは堂々巡りな八つ当たりに過ぎなかったっていうのに子どもみたいな振る舞いをして、大人の道理であやそうとしてくる。それがどれほど救いとなったか。
交通量こそ比較的少ない割に事故が頻発する十字路、その角にそびえる電信柱の根元には花が絶えず供えられていた。そこは通学路だった。背丈でいえば同じぐらいの、黒々とした塊が這い蹲っていて、まるで追い縋るように伸ばされた腕の先にあたるであろう部分で、まばらに道行く人々の足首に絡みついていた。いつも無視していた、万が一にもたたらを踏まないように、土ふまずがついてしまいそうなぐらい力みながら。差し掛かる前はいつだって緊張する、だからって努めて平静を装わなきゃならない、気付いた素振りを垣間見せた途端についてくる奴がいることを、知っていたから。たちどまっていたら促すように手を繋いでくる、ただ唯一の身内を残してどうこうなるつもりは端からなかった。置き去りにして、とうとう一人きりにさせたくはなかった。血の繋がった肉親をどれだけ待ったところで帰ってくる気配がないことを悟った日の夜、布団のなかで隠れて泣いていたのを慰めることだってできやしなかったが。そうやって、俺はなにもしてやれなかった、できなかった。姉貴にだって、呪いにだって。
学校帰り、玄関へ向かって放り出す勢いでそれまで背負ってた荷物もろとも置き去りにして、迎えに寄越してもらった車にまで一目散とばかり駆け込むような慌ただしさだった。秒単位で隙間なく管理された、過密を極める予定すらも難なくこなしてみせるあの人に同行するとなったら、例え小学生とはいえ愚かにも足を引っ張りかねない怠慢なんざ微塵も許されるわけがなかった。選び取った道の先で、そういう生活を余儀無くされていた。現場入りさえすれば解決するのは一瞬のこと、だからこそ次々と梯子するのが常だった。移動中の車内で掻き込んだ弁当が胃の底ですっかり消化し尽くされた頃、飯屋がやっていればそこに連れて行かれたし、より遅い時間まで縺れ込んだらコンビニで済ませることも屡々あった。店頭に並ぶケースのなかで陳列された、調理済みの商品たち。今にして思えばなるべく暖かいものを選べるようにしてくれていた気がする。大抵は互いに別々の味を選んでシェアしていた、たまに売れ残ったそれらを片っ端から注文していたことだって。考えるのが面倒な時はそんな具合だった。できたてにありつけることは滅多になくて、選択肢の幅もそう広くはなくて、少し表面が乾いて固くなったものを、紙のナプキンで挟んで半分にする。脂ぎった感触が指に残って、舐めようとして、でもやめた。行儀の悪い所をみせたくなかったから、せめて分別できる部分は隠したかったから。断面が綺麗に裂けていて形も整っているほう、大きくわけられたほう、色合いからして味付けがぼやけてなさそうなほう。なけなしの小遣いから出す前に精算は済まされていて、支払った試しなんざついぞなかった。そんなんだからガキながらに借りを返すつもりで渡していた。暫くして、あの人もそうしていてくれたことに気が付いた。そういう優しさをくれていた。今だってきっとそうなんだろう。
余白を埋める、それらしく。
単行本未収録情報、完結後の世界線におけるif設定、捏造