彼女が『今日は針供養の日と言うのよ』と 遥かな昔に教えてくれたのを思い出す。 きっと、その日も教えを請うために彼女の家へ行ったのだろう。 縫い詰めている最中の布を広げるなり言われた聞き慣れない言葉に 首を傾げたような覚えがある。 そして彼女は子供の僕にもわかるよう懇切丁寧に伝えてくれた。 あの頃は純粋さの欠片を失っていなかったものだから 使い続けた道具への感謝も上達への願いも 素直に込められたように思う。 針を刺されたすこし異様な姿にはぎょっとしたのだけど。 〘最期ぐらいは柔らかな感触で心を休めたい。〙 幼い僕はそういうものかと納得したが、 今の僕はその感覚を理解しがたいと思う。 生涯永遠に、たとえ折れようとも、僕は僕の生き方を変えたくはない。 まぁ、そんな話ではないことは理解しているのだよ。 無機物に感情移入するほど愚かでもない。 ああ、結局その日はどうしたのだっけ。 『だからゆっくりお喋りしましょう』 思い出した。 紅茶とクッキーを振る舞ってくれたのだったね。 寒い日だったから、ミルクのおおい紅茶はとてもとても美味しかった。 思い出というものはいつでも甘やかに横たわるものだ。 優しい夜のヒュプノスが 与えた眠り以上の穏やかな夢を見れるよう祈る。 |
#「お師さん」 #「すきかも」 >かも(連語) >〔副助詞「か」に係助詞「も」の付いたもの。近世以降の語〕 >種々の語に付き、副助詞的にはたらく。 >(「かも知れない」などの言い方の「知れない」などを略した形として) >不確かな断定を表す。 つまり影片は僕を断定的に好いてはいなくて? 今さら、今さらになって今まで向けられていた感情の すべてをすべて……勘違いだったことにされてしまったら、 僕はこの先どう……どうすればいいのか。 #「あかん…好きや…。」 #「気持ちを抑えようとしても…無理やった…。」 「……君、好きかもしれないと。そう言ったよね?」 #「抑えようとしたんや!!」 #「すきや!!!」 #「好きやけど!?」 #「え!?」 #「すきや!!!!」 なぜ、なぜ僕が怒られ……ええとキレ?られているのか……? 良くわからないが、つまりこれは……影片は僕を好いている……? 「待って」 「喧しい」 #「待たん!!!!」 #「すきや!!!!!」 「五月蝿い」 ひたすら好きだと叫ぶだけのおもちゃの人形になってしまった影片を なんとか宥めて事情を聞き出した。 要するに、好きの感情が強く出すぎてしまって、 重いと思われてしまうのではないかと。 好意を抑えられたら重たくなくなるかもしれないと思った、と。 そうして実行した挙句失敗した、と。 ……君ね、いい加減見切り発車で物事を始めるのはやめるのだよ。 馬鹿の浅知恵ほどしょうもないものはないね。 振り回されて僕も随分と腹が立ったものだけれど、 正しい感情を改めて伝え直させたからそれで満足したよ。 けれど許すのは今回だけだ。次はない。 変に感情を抑えようなどとしないこと。それではただの人形だ。 せっかく君はそこから外れようとしているのだから。 |
目覚める気配がした。 夢から覚めたら再び夢の中だったとでも言いたげな ぼんやりとした顔を影片がしている。 暗闇を得意としない彼のためにつけたままの ベッドサイドの仄かな明かりは、僕の読書のためにも役立っている。 今夜もそうだ。なんとなく寝つけなくて本を読んでいた。 物語に入りこんでいたとはいえ、そんな不躾な視線を向けられてはね。 誰でも気づくというものなのだよ。 こちらの一挙一動をじっと見つめるものだからやりにくいったらない。 本を閉じて『どうしたのか』を問えば、 話すかどうかを迷ったらしい唇が震えるのが見えた。 端的に言えば悪夢を見たらしい。 弱々しく、そして解けない力強さで僕の腰を抱き寄せるものだから 仕方なく今夜はそのままベッドへ潜りこむことにした。 髪を撫でながら幼子を宥める。 何度も繰り返し見た悪い夢ならば きっとすぐに忘れられるからね。 |
僕はスマホを持ち歩く習慣もこまめにチェックをする習慣もなくて、 影片からの連絡に気づかないことがおおいのだけど。 ちょうど仕事の電話が終わったタイミングで #"お師さんに、あいたい~……。" と、メールが入っていて。 君、ほんとうに「待て」ができないよねぇ……。 返事をしたとたんに洪水のように雪崩れこんでくる「さびしい」に 呆れるやら感心するやら。 そんな体たらくで僕と離れられるのかね。 心配させることなく日本を発たせてほしいのだけど。 長期休みの度にこちらへ来るなんてことを僕が許すはずがないだろう。 と、言っても彼は聞かないだろうね……聞かないだろうな。 頭が痛い。 というかね、 僕はそんなことに貴重な君の時間も資金も使って欲しくはないのだよ。 それは君を輝かせるために使うべき資源であってね。 僕を追うという君の言葉は、決してそう物理的なものではないはずだ。 ほんとうに追いつきたいのなら、 その時間も資金も何に使うべきかわかるだろう? |
世界へ馴染む方法は簡単だ。 登りつめて昇りつめた階段の、その段から飛び降りればいい。 地に墜ちた僕の断片が散らばって世界に馴染んでいく。 そう、僕を世界へ溶かそうとする圧が僕を死たらしめる。 いっときはほんとうにそうすべきだと考えたぐらいだ。 だが〘受け入れる自分〙と〘理想の自分〙との合間の谷に落ちて 惨たらしく四肢が裂けることも、 このままで居続け軋轢に身体を軋ませることも、 どちらも僕にとって苦でしかないのならば。 せいぜいこの地獄を味わってやろうと。 そう思うのだよ。そう思えたのははたして、誰のせいだろうね。 僕にとってはこの世こそ。 だから、この世の果てだ。道連れになるのは。 この世界の底がどこにあるかは知らないけれど。 共に地獄で生みだす焔が消えるまで。 僕は美しいものが好きだ。天上のアストライオス。 いつまでも輝きに満ちあふれているように。 |