逝く夏のような煌めく午後を過ごし続けていた。 愛すべき箱庭。 停止した美というものも確かにある。 だが、不変の美しさは普遍的な美しさではないのだよ。 だからこそ、僕らは進んでいく。 芸術を追い求める者として。 錆び付いた秒針がいま、ようやく動き出そうとしている。 僕が短針であるならば、君は長針だ。 きっと君は追いついて、僕らは重なる。 だからほら、影片。 変わることは、進むことは悪いことではないよ。 まったくもう……いつまで泣いている気かね。 がらんどうになった教室を最後に出たとき僕は、 がらんどうの瞳を思い出していた。 むかしの君の瞳だ。 今はたくさんの美しいものを詰めこんで きらきらと瞬いている。 あぁ、次に会うときはきっと、更にその光が溢れているのだろうね。 僕はそれがいまから楽しみで仕方がないのだよ。 だから、悲しい別れではない。 ……だからねぇ、 いい加減離れてくれないと最後の荷造りができないのだけれど。 今夜も君を宥めすかすだけで終わりそうだ。 |
泣きつかれた。影片に。 自分の発言で大変なのだと。 何がだね。主語をはっきりさせたまえよ。 あれの言葉が要領を得ないのはいつものことだけれど いつにも増して支離滅裂だ。 それから自分の悩みを装って一言。 #「どうしたら夜、眠くならんやろか。」 ……まぁ、その悩みは君も持っているものだからね。 僕が君よりも後に眠るのは、単に眠気が来ないだけだ。 眠気に抗う術を持っているわけではないのだよ。 僕の場合、作業をしている限りは起きていられる。 それはデザイン画を描き起こすでも良い。 台本を声に出して読むでも良い。 意思を持って身体を動かすというのが大事なのではないかね。 影片は身体を横たえた途端に眠ってしまうから、 単純に身体を起こしておくのも手だろう。 ……糖類の入っているものは逆に眠くなると聞いたよ。 と、あれもあの手この手で起きていようとはするけれど。 昔はひとり縮こまるようにして眠っていた君が 僕の隣でただただ安心を得て眠る姿を見て過ごす時間。 それが僕にはたまらなく愛おしい。 きっと君は起きないけれど、宝石をおさめる瞼に魔法を残す瞬間が 僕の一日の終わり。 愛するひとの眠る姿は僕を天国へ運んでくれる。 Tu es mon bijou à moi. |
影片が僕の言葉を宝物だと言う。 きらきらした宝石のようだと。 すべてを大切にしまっておきたいと言うが、誇張では? それこそ、不出来だとも出来損ないとも言っているのだし。 宝にするなら美しく綺麗な言葉だけを粒選し、 保管しておいてほしいものだよ。 「愛しい」「綺麗な」「愛している」 たとえば、こういう言葉なら 唇からこぼれた途端に宝石へ変わってもおかしくはない。 #「でも、おれはお師さんからもらった言葉全部大切やけどなぁ。 #その言葉たちがあるから、今があるっちゅうか~…?」 僕が影片へ投げた言葉の中には 「整っていない」「不揃いな」「鋭利な」言葉もあったはずだ。 それまで大切だと言われると複雑な感情を抱くのもまた事実。 影片はその言葉がなければ今の僕たちはなかったかもしれない、と。 そう言うけれど。 君を傷つけなくても同じ結果は得られたかもしれない。 そればかりは僕にさえ分からないのだよ。 などと言うと、自分は傷ついていなかったと笑う。 あの頃の僕のほうがよほど、ぼろぼろに傷ついていたと。 ……自分が傷ついていれば、ひとを傷つけても是となるのだろうか。 答えは否であると、僕は思う。 思うのだけれど、影片は自分が傷ついたことも是としてしまう。 ……君は、存外強いね。守る必要はなかったほどに。 僕は思い違いを、思い上がりをしていたのかもしれない。 ……今も、ほんとうは僕が影片を必要としているのか。 〘来てくれ、やさしい夜よ。来て。愛にあふれ、黒く塗られた眉を持った夜よ。僕の影片を届けておくれ。〙 |
唇を湿らせられる。 砂糖の溶けた水の味だ。 お願いだから。 影片の声がする。 しばらく食事を取っていない。 身体に何も入れなければ死んでしまうだろうね。 飲んで。 与えられる強めの懇願。 花の蜜ではなく砂糖水で生きながらえるなんて 捕まった蝶に似ている。 ただひとつ思うのは この蝶はもう、舞わない。 2015/12/ |
困ったことに影片が落ち込んでいる。 そもそも、僕を傷つけたと彼が思っている発言も 彼の精神の不安定さが招いたものでね。 どうやらまだメンテナンスが必要なようだ。 不安かを問えば帰ってくる控えめな肯定。 遠い船灯のように揺れる瞳の光が場違いにも美しい。 『さびしい』 そう聞こえた。 僕が言葉を返す前にもう一度、同じ単語が宙に放られる。 僕がいても? #「さびしない。」 そうだね、いい子だ。 傍にいるというのは、何も物理的なことではないのだよ。 僕は僕の血潮を半分君に分け与えた。 僕の中には君の血潮が半分、流れている。 だからどんな場合でも、魂は同じところへいるだろう。 どこへいても僕は影片に寄り添うのだから。 不安なときはそれ以上の安心を与えると、 僕は僕自身に誓うよ。 |