僕は何も悲観的な気持ちを持って、 〘ひとりで生きていく術〙を伝えているわけではない。 仮にも「師」と称されたのであるから、 独り立ちする君へあらゆることを残そう。 君はもうほんとうは繰り糸などなくとも自分の足で立てるのだから。 と、僕は僕の論が間違っているとは思っていないのだけれど、 影片の気には召さなかったらしい。 ……君、怒るときに僕の名前だけを呼ぶのをやめないかね。 怒ると言っても大層なものではない。 まぁ怖くはないね。 それでも、 いままで影片が怒りの感情を見せることは少なかったものだから、 多少は感じ入るところもあるというか。 その感情を表へ出すことがあまり得意ではなかったのに、 変わったものだ。 君も変化していく。進歩していく。 あぁ……叶うのなら僕は、 春に開く蕾へ期待をするように、そんな君を見ていたい。 花開く君はきっと美しく、 花のように生命力に満ちて、ひとの心を惹きつけるだろう。 |
生きがいを他者へ求めるのは危ういことだ。 影片が僕を生きがいとするならば、僕はそれを止めなければならない。 僕がいなければ成り立たない生を与えてはいけないのだよ。 そんな不確かなものに依る必要はない。 君には良き友人もいる。 僕がいなくともきっと力になってくれるだろう。 楽しいことも彼らが運んできてくれるはずだ。 ……と、そんな話をしたところ、影片に怒られたのだけれど。 僕がいないのは本当に嫌だと。無理だと。 「君……僕が死んだらどうするつもりかね?」 これは失言だった。 とはいえ、こんな話で泣くとは思わないだろう……普通。 ただの仮想話をそこまで悲しがるとはねぇ……。 いつかは僕のいない世界が来るものであるし、 想定しておくに越したことはない。 順当にいけば数十年後でも、 あるいはそれが明日になる可能性はゼロではないのだからね。 僕は追われることを望んではいないし、 そんなことをすれば死んでも君に対しての怒りを消さないよ。一生ね。 泣き喚いて泣き疲れて寝た君が、 明日には僕の話をきちんと聞いてくれれば良いのだけれど……。 >(2020/04/14追記) #「逆におれが先に死んでもええの?」 「嫌。」 #「ほら!お師さんもいややって言うた!」 「嫌だけれど、そうなればきちんと前を向いて幸せに生きていくよ。」 #「…そりゃ、幸せになってほしくないわけとちゃう。 #そのあといっしょに生きていくんは、 #お師さんが選んだひとやし…認…認め…認められん~! #化けて出たる~!」 「あぁ、君が恨むぐらい幸せになるから。」 「……化けて出てね。」 |
昼間、買い物へ出かけた影片から電話があったのだけれどね。 #「お、お師さぁん…ベーキングパウダーって薄力粉~…?」 「あぁ、そうだよ。 いや、君の話だからといって全く聞かないで返事をした。 僕の気の所為ならば良いのだけれど、念の為もう一度言いたまえ。」 #「ベーキングパウダーと薄力粉…。」 「別物だ。名称も違ければ役割も違う。」 良くベーキングパウダーを知らずに十七年も生きてきたね、君……。 時折常識的なものがごっそり抜け落ちていて恐怖を覚えるのだよ。 仮にベーキングパウダーを知らずとも、 薄力粉が必要ならば用意するのは薄力粉だろうに。 というか、薄力粉ならば家にある。 今度は何を作る気なのだろうか。 春から一人暮らしが始まるから練習をすると意気込んでいたけれど、 肝心な料理の練習が疎かになってはいないかね。 ケーキばかりを作っても仕方がないだろう……。 三食の食事のほとんどを製菓で賄うようになっても困るよ。 与太話。 「影片のことが頭から離れない。」 #「えっ、ほんまに?めっちゃ嬉しい〜☆」 「いや……君に似ている犬種の……。」 #「影片ポンスキーみか…!」 「あの子を迎え入れたら『みか』と呼ぼうか。」 #「おれも呼ばれてへんのにっ!?」 「どちらも影片だと紛らわしいからね。」 #「ぬぅぅ…う…おれも…呼ばれてない…名前…うぅ~…。」 「犬のように唸るな。うるさい。」 #「う…!ぬ…!」 「うるさい。」 |
彼の唇が甘い。 いついかなるときに確かめても甘いのだから、 生まれ持ったものなのだろうかと夢想する。 焼き菓子の生地を練りあげるように混ぜて 彼を形作った神さまのことを。 きっと最後に飴玉をふたつ、はめこんだはずだ。 神さまは欲張りだから異なる味にしたのだね。 だなんて、僕より君が言いそうな話なのだけれど。 近ごろ、眠る前にはココアの味がする。 今日はイチゴの味がした。 君……僕に無断でアルバイト帰りに何か食べただろう。 明日の食事から多少の差し引きを考えておいたほうが良いね。 そもそも、僕はそこまで好んで甘いものを食べはしないのだよ。 君から与えられない限りは。 溜息を吐いて強制的に舌へ乗せられる甘味を無糖の珈琲で流しこんだ。 飲むならば紅茶が良いけれど、今のこれは彼の味を消すためだからね。 より濃く、より強い味でないといけない。 それでもなお甘いこれを消すにはどうすれば良いのだろう。 舌へまとわりついて、つかんで、引きこむそれは 時々見せる君のやり口とそっくり同じで、目眩がする。 |
春の気配がする。愛おしい季節だ。 初春のときは過ぎただろう、だなんて言葉は聞かないのだよ。 あの日を思い出してしまったのだから。 君を拾ったのは温かい春の合間、花冷えのような日だったけれど。 まだ拾ったばかりの幼かった君は僕を見て「竜」だと言った。 他の子が「お師匠さん」と言うのを真似しようにもどうにも言えなくて、いまだに「お竜さん」だとか「お師さん」と呼んでくる。 ……不出来ながら可愛らしい弟子だ。 皆それぞれ、各々の土地の「神さま」になるものとして離れていった。僕の手元に残ったのは君ひとり。 君もいつかは駆け出していくのだと思うと……物悲しいね。 今はただの愛らしい仔馬だけれど、駆けるのはいっとう早いだろう。君は。 目標さえ見つけてしまえば、あとはあっという間に走り出していく。 僕など見えないところへね。 今のこのときが、一瞬にして過ぎ去っていくものだと思うと……どうにも甘やかしてしまっていけない。 この前も僕のにおいがしないと眠れないだとか言って……。 お気に入りの香は君にも分けてあげた筈だけれど。それでは意味がないと泣くのだから……そんな体たらくで立派な「神さま」になれるのかねぇ……。 夜具の中へ潜りこんでくる体温が心地よくて、手離せない僕も僕だけれど。 いとしい子。腕の中の愛らしい寝顔を見ていると、僕は自分の中の神性すら忘れてしまう。 可愛い影片。今だけは。この春のまどろみの間だけは。僕の胸の中にいておくれ。 さて、そろそろ神楽舞の準備に戻らなくてはね。多くの者に春の祝福があるように。春が続くように。僕は祈り、そして舞おう。 |