僕はこの世界の何を知っているのだろう。 この露悪的で不思議に満ちた世界は、 こんなにも大きく、どこまでも広がり、底知れない。 僕はいつだってそんな世界に焦がれた。 腕を伸ばして世界へ触れた僕は、そこに美しさを見出す。 土の中に埋もれたある日の宝物を掘り出すときのように指先で触れ、 そっとその砂を払おう。 愛しい者のかんばせを確かめるように。 目に見える形にしていくのだ。 何よりも甘美で、あらゆるものよりも鮮烈で、 豊かな感性を与えてくれるものを。 僕だけが見られる美しさを、万人が見られる美しさへ。 万人が理解できるものでないとしても、見落とし続けるよりはマシだ。 この僕が与えてやろう。 ……そうして掘り起こされたうちのひとつが君だ。 丁寧に埃を払って輪郭を取り戻してやると、大層綺麗な形をしていた。 僕はそれを誰でも見られるいちばん良い場所へ飾る。 訪れる客が足を止め、目を惹かれる程の美しさ。 誰もがそれを知るがいい。 |
ひとはどこまでも欲深いものだ。 極上と呼べるものを知ってしまえば、 どれだけ優秀なものでも満足できなくなる。 際限のない欲望は人間の身を滅ぼすというのに、だ。 #「お師さんただいま〜。こんな時間に何か食べてるん珍しいなぁ。 #何なに〜…クロワッサン!…すきなもん食べとるのにお顔暗いで〜?」 「……クロワッサンを買いに行ったら クロワッサンが置いていなかったから 仕方なくクロワッサンを買ってきたのだけど、 やはりクロワッサンに未練がある。」 #「な、なんて…?ク、クロ…?」 「駅前のパン屋にね、 『マジうまクロワッサン』という商品があるのだよ。 その店は普通のパンのレベルも高い。 そんな店が自信を持って名付けたその味を賞味したいと思ってね。」 #「今食べてるんちゃうのん?」 「買いに行ったものの……完売していた。 これは仕方がなく買った普通のクロワッサンだ。」 #「ありゃー…。 #今度は買えるとえぇねぇ、『めちゃうまクロワッサン』」 「ノン。『マジうまクロワッサン』」 #「たいして変わらへんよ。」 |
#「天国に行ったうさちゃんが神さまに名前聞かれてな、 #『かわいい』が名前だって答えるお話読んだんよ〜。」 「……うさぎの頭が悪いという話?」 #「ちゃうんよ!一緒に暮らしとった飼い主さんがうさちゃんのこと #『かわいい』『かわいい』って言うから! #呼び名が『かわいい』だと思ってしまうんやって!」 「成る程……やはり頭が悪いのでは……?」 #「うさちゃんバカにしたらあかんよ。」 「……それで、それが何かね。」 #「おれやったらなんやろ。 #最近は『出来損ない』も言われんし…やっぱり『かわいい』やろか?」 「それはもちろん、『ぼくの影片』だろう。 呼んでいる数の多さで言えば。」 #「えへへ……。」 君は随分と嬉しそうな顔をしているけれど。 はたしてそれが良い言葉なのかどうか。 ……隷属させるような呼び方で君を縛っているのではないかね。 僕の付属として君が見られることを、僕は良しとしない。 それでも、君をそう呼んでしまうのは…… 君が自分の腕の中にあると確かめたいからなのか。 君が僕のものであると世界へ示して、枷を嵌めている。 なんとも愚かしいね。 |
どこまでも白い便箋を前にして彼此数時間悩んでいる。 彼から手紙をもらって早数日。 依然として返事を出せないままだ。 直接の対話、電話での会話と異なり、 自分の思いの丈を一息に綴る手紙というものは未だに慣れない。 それでもこうして筆を取ることにしたのは、君が返事を強請るからだ。 #「お師さん〜?お手紙のお返事は〜?」 「……一週間前に出したよ。 届いたのを食べてしまったのではないかね。」 #「食べとらんもん〜。 #どこ行ってしもたんやろ…ほんまに?ほんまに出したん?」 「出していない。」 #「くれや!!!」 「ノン!乱暴な言葉を使うなッ!」 僕が彼に伝えたいこと。 彼に聞いて欲しいこと。 頭には思い浮かぶのだけれど、それはまるでシャボン玉のようで 掴もうとする間に弾けてしまう。 ……僕は安っぽい文句が嫌いだ。 『好き』だとか単純な言葉はただ掘り出しただけの原石で それを自分の言葉で研鑽してこそ、宝石に成り得るのだと思う。 だからもうすこし待つが良いのだよ。 この僕がきっと君に似合う宝石を誂えるから。 |
#「あ!あんな、お手紙書いたんよ!」 「へぇ……わざわざ?何かあったのかね?」 #「んふふ、届いてからのお楽しみや〜♪」 「まぁ、気長に待っておくよ。」 #「ポストに入れたん一週間前やったから!もう届いてるかも!」 「ふむ。それなら届いてもおかしくはないね。 明日の朝にでも確認しておく。」 #「今!見てきてや!ついてるかもしれん!」 「……面倒……。」 #「すぐ!行ってきてや!」 「そんなことでこの僕を動かすとは君も偉くなったものだね……。」 そうして届いた君の言葉の欠片をレターナイフで開く。 懐かしい君の香りがしたかと思えば、転がり出る不透明な袋。 あぁ、君がよく舐めていたものだから君を思い出させたのか。 まったく……食品を手紙で送るかね、普通。 子供のような辿々しい文字がこれでもかと詰め込まれ、 読むだけで表情豊かな君の顔が眼に浮かぶ。 最初こそこちらの様子を窺う内容だったけれど、 段々と文章が変わっていっていた。 まるで「あれも欲しい」「これも欲しい」と 駄々をこねる子どものように。 僕が帰ってきたら行きたいところ、したいこと。 感情のままに書いているとわかる。 最後の最後、一番感情の込められた書きなぐりのような文章には 「逢いたい。」 の一言だけ。 その言葉で、君の声が鮮明に蘇った。 寂しがるときの君の声だ。 今まで電話口で聞いていた声とは違う、ほんとうに寂しいときの色。 ……僕は今の生活を気に入っているし、君と離れたことに後悔はない。 けれど……この時ばかりはこの距離が、もどかしい。 |